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突然ですが皆さん、最近ラジオを聴いていますか。2025年は1925年3月22日に国内でラジオ放送が始まってから100年。インターネットやSNSなどに押されてはいますが、今でもラジオは災害時には頼りになる情報伝達手段です。そこで、この記事では災害とラジオの関係に注目し、100年の歩みを振り返ります。「LuckyFM茨城放送」(水戸市)の地域防災の取り組みや、現場経験の長い毎日放送(MBS、大阪市)報道業務部次長の大牟田智佐子さんのインタビューも紹介します。(共同通信=小林清美、所沢新一郎、川村敦)
▽関東大震災を契機に導入の機運が高まった
世界で初めてのラジオ放送は1920年、アメリカで始まった。日本では1923年に発生した関東大震災が国内での導入の契機となった。
テレビやラジオがなかった当時、メディアは新聞や雑誌という紙の媒体だけ。震災に伴う火災で新聞社の多くが焼失、朝鮮人を巡る流言で、混乱が広がった。正確な情報の欠乏が、ラジオに期待する機運を高めた。アメリカではクーリッジ大統領(当時)がラジオ放送で日本への支援を呼びかけ、多額の義援金が集まったという。
1924年には内相兼帝都復興院総裁として震災からの復興を担った政治家、後藤新平がNHKの前身「社団法人東京放送局」の総裁に就任した。
仮放送は1925年3月22日に東京・芝浦の施設で、本放送は7月12日に東京・愛宕山の施設で行われた。いずれも後藤があいさつした。現在、愛宕山にあるNHK放送博物館に展示されている本放送のプログラムによると、午前9時に天気予報、午前10時から君が代や吹奏楽の演奏を予定。午後には謡曲やラジオ劇もあり、娯楽色が強かったようだ。
後藤新平の出身地、岩手県奥州市の市立後藤新平記念館には、あいさつの原稿が残る。学芸調査員の中村淑子さんは「後藤は『講演をしても人数は限られているが、ラジオなら社会の隅々にまで情報が届く』と捉えていた。日本が世界でやっていけるかどうかは、物資の流通と情報が鍵を握ると考えていた」と解説する。
また、災害情報研究の第一人者で東大教授を務めた故広井脩氏は、著書「災害報道と社会心理」(中央経済社、1987年)で「災害時のラジオの重要性が初めて一般に認識されたのは1964年の新潟地震だった」と指摘した。新潟地震でラジオは被災地向けの放送を意識し、テレビは被災地の外に惨状を伝えるという役割分担が確立した、とも述べている。
1992年には市町村単位の「コミュニティー放送」が制度化され、地域に密着した防災啓発番組などを制作する動きが生まれた。
1995年の阪神大震災をきっかけに「臨時災害FM」もスタート。臨時災害FMは、災害発生時に住民の安否や支援情報を伝えるため、地方自治体が総務省に申請して開設する。自治体が放送設備を用意する必要があるが、総務省の無償貸与制度もある。既存のコミュニティーFM局の設備を活用することも可能だ。2011年の東日本大震災では30市町が開局、被災地の情報をきめ細かく伝えた。
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突然ですが皆さん、最近ラジオを聴いていますか。2025年は1925年3月22日に国内でラジオ放送が始まってから100年。インターネットやSNSなどに押されてはいますが、今でもラジオは災害時には頼りになる情報伝達手段です。そこで、この記事では災害とラジオの関係に注目し、100年の歩みを振り返ります。「LuckyFM茨城放送」(水戸市)の地域防災の取り組みや、現場経験の長い毎日放送(MBS、大阪市)報道業務部次長の大牟田智佐子さんのインタビューも紹介します。(共同通信=小林清美、所沢新一郎、川村敦)
▽関東大震災を契機に導入の機運が高まった
世界で初めてのラジオ放送は1920年、アメリカで始まった。日本では1923年に発生した関東大震災が国内での導入の契機となった。
テレビやラジオがなかった当時、メディアは新聞や雑誌という紙の媒体だけ。震災に伴う火災で新聞社の多くが焼失、朝鮮人を巡る流言で、混乱が広がった。正確な情報の欠乏が、ラジオに期待する機運を高めた。アメリカではクーリッジ大統領(当時)がラジオ放送で日本への支援を呼びかけ、多額の義援金が集まったという。
1924年には内相兼帝都復興院総裁として震災からの復興を担った政治家、後藤新平がNHKの前身「社団法人東京放送局」の総裁に就任した。
仮放送は1925年3月22日に東京・芝浦の施設で、本放送は7月12日に東京・愛宕山の施設で行われた。いずれも後藤があいさつした。現在、愛宕山にあるNHK放送博物館に展示されている本放送のプログラムによると、午前9時に天気予報、午前10時から君が代や吹奏楽の演奏を予定。午後には謡曲やラジオ劇もあり、娯楽色が強かったようだ。
後藤新平の出身地、岩手県奥州市の市立後藤新平記念館には、あいさつの原稿が残る。学芸調査員の中村淑子さんは「後藤は『講演をしても人数は限られているが、ラジオなら社会の隅々にまで情報が届く』と捉えていた。日本が世界でやっていけるかどうかは、物資の流通と情報が鍵を握ると考えていた」と解説する。
また、災害情報研究の第一人者で東大教授を務めた故広井脩氏は、著書「災害報道と社会心理」(中央経済社、1987年)で「災害時のラジオの重要性が初めて一般に認識されたのは1964年の新潟地震だった」と指摘した。新潟地震でラジオは被災地向けの放送を意識し、テレビは被災地の外に惨状を伝えるという役割分担が確立した、とも述べている。
1992年には市町村単位の「コミュニティー放送」が制度化され、地域に密着した防災啓発番組などを制作する動きが生まれた。
1995年の阪神大震災をきっかけに「臨時災害FM」もスタート。臨時災害FMは、災害発生時に住民の安否や支援情報を伝えるため、地方自治体が総務省に申請して開設する。自治体が放送設備を用意する必要があるが、総務省の無償貸与制度もある。既存のコミュニティーFM局の設備を活用することも可能だ。2011年の東日本大震災では30市町が開局、被災地の情報をきめ細かく伝えた。
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突然ですが皆さん、最近ラジオを聴いていますか。2025年は1925年3月22日に国内でラジオ放送が始まってから100年。インターネットやSNSなどに押されてはいますが、今でもラジオは災害時には頼りになる情報伝達手段です。そこで、この記事では災害とラジオの関係に注目し、100年の歩みを振り返ります。「LuckyFM茨城放送」(水戸市)の地域防災の取り組みや、現場経験の長い毎日放送(MBS、大阪市)報道業務部次長の大牟田智佐子さんのインタビューも紹介します。(共同通信=小林清美、所沢新一郎、川村敦)
▽関東大震災を契機に導入の機運が高まった
世界で初めてのラジオ放送は1920年、アメリカで始まった。日本では1923年に発生した関東大震災が国内での導入の契機となった。
テレビやラジオがなかった当時、メディアは新聞や雑誌という紙の媒体だけ。震災に伴う火災で新聞社の多くが焼失、朝鮮人を巡る流言で、混乱が広がった。正確な情報の欠乏が、ラジオに期待する機運を高めた。アメリカではクーリッジ大統領(当時)がラジオ放送で日本への支援を呼びかけ、多額の義援金が集まったという。
1924年には内相兼帝都復興院総裁として震災からの復興を担った政治家、後藤新平がNHKの前身「社団法人東京放送局」の総裁に就任した。
仮放送は1925年3月22日に東京・芝浦の施設で、本放送は7月12日に東京・愛宕山の施設で行われた。いずれも後藤があいさつした。現在、愛宕山にあるNHK放送博物館に展示されている本放送のプログラムによると、午前9時に天気予報、午前10時から君が代や吹奏楽の演奏を予定。午後には謡曲やラジオ劇もあり、娯楽色が強かったようだ。
後藤新平の出身地、岩手県奥州市の市立後藤新平記念館には、あいさつの原稿が残る。学芸調査員の中村淑子さんは「後藤は『講演をしても人数は限られているが、ラジオなら社会の隅々にまで情報が届く』と捉えていた。日本が世界でやっていけるかどうかは、物資の流通と情報が鍵を握ると考えていた」と解説する。
また、災害情報研究の第一人者で東大教授を務めた故広井脩氏は、著書「災害報道と社会心理」(中央経済社、1987年)で「災害時のラジオの重要性が初めて一般に認識されたのは1964年の新潟地震だった」と指摘した。新潟地震でラジオは被災地向けの放送を意識し、テレビは被災地の外に惨状を伝えるという役割分担が確立した、とも述べている。
1992年には市町村単位の「コミュニティー放送」が制度化され、地域に密着した防災啓発番組などを制作する動きが生まれた。
1995年の阪神大震災をきっかけに「臨時災害FM」もスタート。臨時災害FMは、災害発生時に住民の安否や支援情報を伝えるため、地方自治体が総務省に申請して開設する。自治体が放送設備を用意する必要があるが、総務省の無償貸与制度もある。既存のコミュニティーFM局の設備を活用することも可能だ。2011年の東日本大震災では30市町が開局、被災地の情報をきめ細かく伝えた。